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新1万円札・渋沢栄一と井の頭公園の関係

井之頭学校

井の頭自然文化園の動物園がある場所(御殿山地区)は、かつて井之頭学校がありました。この学校の開設には、今話題の2024年から使われる新1万円札の渋沢栄一が関係しています。

井之頭学校は、両親を亡くしたはぐれ少年を保護教育するための場所。渋沢栄一はこの場所を皇室から拝借し、養育院感化部を開設したのです。

感化部は、1905年(明治38年)東京市養育院感化部井之頭学校を開設。1934年(昭和9年)、養育院井之頭学校と改称しました。

井之頭学校には保母もいました。勉強を教えるだけではなく、将来のために職業訓練もしていました。また、敷地内には運動場だけではなく、畑や作業場もありました。1915年(大正4年)には、職員は教員2人、ほぼ8人を含む20人。収容少年は、140人ほどでした。

昭和になると、井の頭公園内にレクリエーション施設が整備され、公園利用者が増えきました。そのため、井之頭学校との共存が難しくなりました。

結果、1939年(昭和14年)井之頭学校は萩山(東村山市)に移転。学校があった敷地は、公園になりました。後者の廃材は、動物園の動物舎に再利用されたのです。

『井の頭公園100年写真集』から

渋沢栄一は、実業界引退後に教育や社会公共事業にも広く尽力しましたが、その一つ、現在の井の頭自然文化園の敷地にあった、非行少年更生施設の井之頭学校の校長を務めていました。

その井之頭学校が殺風景なため庭造りを依頼されたのが、東京市の職員で当時30歳、後に「公園の井下」と呼ばれた井下清です。井下は、渋沢に案内された井の頭の景観を見て、この井の頭の池と森を東京市民の公園にすることと、そうなれば学校の卒業生もここで働けることを進言しました。

渋沢は提案に賛同し、娘婿である東京市長の阪谷芳郎とともに宮内省に御料地の下賜を働きかけました。そして大正2年10月21日東京市の本会議に「郊外公園設置ニ関スル件」を提出し議決されました。

渋沢栄一
1840年3月16日生(天保11年2月13日)
武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)
1931年11月11日没(満91歳)
職業:幕臣、官僚、実業家、教育者

渋沢栄一

江戸時代末期に農民(名主)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔・井上馨の下で財政政策を行いました。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な企業の設立・経営に関わります。

二松學舍第3代舎長(現在の二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現在の一橋大学)、大倉商業学校(現在の東京経済大学)の設立にも尽力。それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称されます。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られています。2024年より新紙幣一万円札の顔となりました。
(ウィキペディア)