歌川広重「名所江戸百景 井の頭の池弁天の社」
三鷹と井の頭池の名前の由来
武蔵野には、将軍家および御三家の広大な鷹場がありました。御三家の鷹場が交わる場所を「三領の鷹場」と呼び、そこから「三鷹」という地名がおこりました。
そんな鷹場に昔から、「七井の池」と言われる名水の泉がわき出ていました。三代将軍家光が「ここの水は最高」ということで、井戸のトップ(頭)という「井の頭池」とふさわしい名前をつけたのです。
ここは、古くから景勝地としても知られており、図左下の弁天堂は、もともと平安時代中期の天慶年間に作られたものです。一度鎌倉末期に消失しましたが、江戸時代になって、この地を気に入った家光が再建したのです。
井の頭池付近は、将軍のみならず庶民からも人気があり、江戸から少し離れていますが、名所として知られていました。歌川広重は、そこを美しい構図にした「名所江戸百景:井の頭の池弁天の社」を描いたのです。
江戸の水のライフライン
また、この井の頭池は、江戸に住む人々にとって重要な役割を担っていました。この泉などを源泉としたのが、神田川であり、上水道(飲料水)として整備されてからは、まさに、命の水の源です。
神田川を上水として整備するよう命じたのは、徳川家康。つまり、家康は江戸の町作りを始めるタイミングで、ライフライン作りにも着手したのです。天正18年(1590)のことです。関が原の戦いの10年も前のことです。
〈出典〉広重 Hiroshige 「名所江戸百景」 時空map
歌川広重肖像(3代豊国・筆)